鬼ヶ島の鬼伽姫
―紅鬼編―


#5 どうしてこう悪ぃ方悪ぃ方へ向かうかね


一同がどやどやと保健室に入ると、どこかで聞いたような男の声が聞こえたので、千児の胸にさあっと不安がよぎった。白いカーテンの向こう、冷たく淡々としたその声の主は、あの男のものだ。千児は譲と協力し合い、死ぬ死ぬ死んでしまうと呻いている隙山大平を長椅子に寝かせると、ベッドの向こうの長身のシルエットにどぎまぎと声をかけた。
「あ、あの」
カーテンが開くと、やはり彼であった。ベッドに寝かされている鬼伽姫のそばで、指に挟んだ針をするすると袖へと引っ込めたその男の影は、異形のそれであった。

「お、おまえは、ケツの……いや、く、蜘蛛ノ大臣! ど、どうしてここに……。しかも、何で白衣なんか着ていやがるんでぇ!」
白衣の男は感情の読みにくい涼しい眼差しで言った。
「これはこれは万の嫡男どの。この度は姫がまた世話になりましたな。私の件は、お気になさることはありません。産休の南野弘子教諭の代わりに、しばし私がこの学校の保健医を務めることになりました次第。人間の社会の正しい手続きに従い、免許は取得しておりますのでご安心ください」
「何だと?」
千児は背筋が寒くなった。よもやこうやって、少しずつ人間と妖怪とが入れ替わっていく戦略であろうか。もしかするとこの学園は、もう半分以上妖怪に乗っ取られているのではあるまいか、と凡庸な想像力をめぐらせつつ、彼はぶるぶると脚を震わせた。

「じょ、冗談抜かすなぃ! おまえら妖怪の企みは一体なん……」
とまで言いかけたものの、その言葉は隙山大平のわめくような必死の懇願にかき消された。
「おお! 蜘蛛の、蜘蛛のお兄様じゃあねえか! 早くおれのケツに例のものを刺してくれよ! 臀筋がやべえんだよ! 早く、あのスゲエ針をおれのこの左右のケツにぃ!」
蜘蛛ノ大臣は微かにため息を漏らすと、「しばし」と言って千児に椅子をすすめると、早速長椅子で尻を突き出している大平の方へ向かった。譲は心配そうに大平の手を握っている。

千児は鬼伽姫の方をちらと見て目をそらし、もう一度見て、改めて驚いた。人間のようになった彼女の薄白い顔は心なしか寂しげだった。ついさっきまで溢れていた表情の豊かさや精力はまったく感じられない。少女は何か深く哀しい思案の中にあるかのように目を瞑り、聞こえぬほど微かな息の音をたてながら眠っている。千児は椅子から立ち上がると、ベッドの側へと寄って、独り言のようにぽつりと言った。
「おい、本当に大丈夫なのかよ」
発した声にストレートに表れた少年の不安を知ってか知らずか、少女の唇は何かを答えるように微かに震えた……ように見えた。千児は思わず早口に叫んだ。
「気がついたのか! おい今何か言ったのか? 何て言った?」
しかし少女は動かない。気のせいだったか、と千児は思い直す。しかし、その時、ふと少女は息を止めたかと思うと、深い沈黙の中にあった瞼を震わせ、再び微かに口を開いた。
「何だ、何か伝えたいのか?」
今度は間違いない。何かを言おうとしているようだ。千児は耳を寄せた。

しかし、その言葉もまた、隙山大平の喜びの声にかき消された。
「オー、ブラ〜バ! ケツの痛みが引いてゆくぞ! ケツのレフト・サイドが喜びの大合唱だ! さすが蜘蛛の兄さん! さあさ次はライトだ。ライトのケツをたのまぁ!」
興奮で腕をぶん回す大平の隣で、袋小路譲も興奮している。
「何という素晴らしい技術だろう! とても人間業とは思えない。これが妖怪の力というものなのか。あの太い針を抜いた後の隙山君の臀部に、傷一つも残っていないじゃないか! 少し触らせたまえ! おお、まるで魔法のようだ、針の跡一つ触知できない!」

「おめえらちと黙れやチキショー!」
と千児は怒鳴った。
「どうかなされたか?」
と蜘蛛ノ大臣。右手に持った白く輝く針を、大平の引き締まった右の臀部に刺し込みながら、無表情な顔だけをこちらに向ける。千児は苛々と頭を上げ、
「てえへんだって! はよ来い! 姫が、姫様が目を覚ま! 覚ま!」
と腕を振り振り言った直後、後頭部をガツンと殴られた衝撃でうつぶせに転倒した。
「うぉいってえ!」
頭をさすりながら涙目で見上げると、そこにはベッドに片膝を立てて起き上がった鬼伽姫が不機嫌な表情で腕を組んでいた。額には二本の角。千児が四つん這いに起き上がるなり、抗議の一つも言わせずに彼女は目と牙をむいて怒号を浴びせた。
「おうおう、クズ男、さっきからぎゃあぎゃあうるせえんだよ! アタシは病人だぞバーロー! 少しは気を利かせて静かにしようって心遣いはねえのかよ!」

「うー、心配して損したぜ……」
と呻くように言う千児の脚を跨ぐようにして、蜘蛛ノ大臣は鬼伽姫に丁重に言った。
「姫、ご回復なさって何よりです。今、唐傘が殿を呼びに行っております」
「けっ! 来なくていいってのに!」
と姫が悪態をついた直後、ドアがノックも無くガラリと空いて、紅鬼と唐傘が現れた。何か言いかけた紅鬼だったが、覚醒状態の娘と目が合い、声を失った。思わず鬼の目に涙が滲みかかるも、そこはぐっと堪えるように険しい表情を作って、言った。
「こら失礼だぞ……ヨロズの嫡男殿の背に足を載せるなど」
しかし、とうとう耐えられずに少し優しい声になって、訊いた。
「……で、怪我はないのか?」
この親父、やはり可愛いじゃねえか、娘がこの親父の可愛さの半分でも云々…と千児はこの間と同じ愚痴を腹の中で繰り返しながら、言った。
「よかったね旦那、姫さん、ピンピンしてるぜ」
「万君よ、娘がまたとんだ無礼を働いて…」
「気にしてねーよ。ちょっと親の顔を見てみたく思っただけだ」

ようやく背中から足をどけて貰って、千児はいそいそと後退する。と、その肩に後ろから手をぽんと載せた者がある。袋小路譲であった。その手は恐怖のために震えていた。
「な、なんなのだ、あの巨人は。鬼なのか」
「うん、鬼」
「み、味方のようではあるが」
「さあね。でも、娘の方よか温厚だぜ」
と千児が言った、その直後のことだった。
「あの顔面青息吐息ぶちのめしてやらァ! あんなの妹じゃねえ!」
と喚く鬼伽姫の声に続き、
「何を言うかァ!」
と紅鬼の怒号が響く。驚いた譲は眼鏡を落とした。
「いくら可愛い我が娘とはいえ、その言葉は聞き捨てならんぞ!」
大臣が急いで「しーっ」のゼスチャーをしたにも気づかず、親子は遠慮無く口論した。

「ざっけんな、何度もでも言ってやる、アタシはあれを妹とは絶対認めねえ! あんなイカレポンチの暴力魔は、線切りにされて釜飯にでも炊き込まれた方が世のためだ!」
「まだ言うか! 蒼牙姫(あおがひめ)は、蒼鬼の奴めに洗脳されているだけなのだ!」
「どうだか! 生まれてすぐに蒼鬼にかっさらわれて、もう身も心もコバルトホーンに忠誠を誓うよう仕込まれてるあいつが、今さらどうだってんだ! どんなに足掻いたって、あいつが父親と思ってんのは、蒼鬼なんだ! まとめてぶっ潰すしかねえよ!」
「ほらまた『ぶっ潰す』なんてお下品な言い方を! 慎みなさい!」
という父親に、唐傘がくるくると回りながら加勢する。
「そうよそうよ! お姫様はね、お上品な言葉遣いをなさるものよ! いつかお迎えに来る王子様のようなお婿さんに呆れられてしまうわよ!」

その言葉に、姫は牙を剥いて激怒した。
「バカ言うなゴラ! 婿って誰だゴラ! まさかこの間ラブレター寄越しやがった、あの真っ白けのあいつがアタシの婿だってんじゃあねえだろうな! 真っ平ごめんだよ!」
「何よ! 零鬼(れいき)さんはイケメンよ! インテリよ! 悪く言わないで頂戴!」
と言う唐傘の先端の方を、紅鬼がわしづかみにしてドスを利かせる。
「なんだ貴様、やけに蒼鬼めの息子の肩をもつじゃあないか」
「そ、そ、そういうわけじゃ……」
「そうだ、親父、こいつぁ裏切りもんだぞ! やっちまえ! 叩き折っちまえ! 八本の骨にバラしてから、一本ずつ歯で食いちぎってくれろ!」
「いやあああ! やめてえええ!」
といった具合に、どんどん話が逸れて行ったその時、蜘蛛の糸が三人の妖怪の頭に絡まると、有無を言わせぬ早さでその口を塞いだ。糸を掻き落とそうと暴れる鬼の親子のあいだに立って、蜘蛛ノ大臣は青白い指で姫の隣のベッドのカーテンを指し、その指でまた「しーっ」の仕草をつくって言った。
「人間の生徒が寝ています」
「そ、それをはよ言わんか」
と紅鬼は急に声をひそめ、汗をだらだら流しながら頭を抱えた。
「な、何てことだ。に、人間に聞かれなかっただろうな、鬼ヶ島≠フ秘密。ぜ、ぜったい、ダメなんだぞ。知られちゃ、ダメなんだぞ……」

(何を今更……)
と思いながら、千児は、鬼殿の肩をタップして恐る恐る話しかけた。
「ちょいちょい親父さん」
「な、何だね」
「そっちも色々立て込んでるようでアレなんだけどよ、アンタら、おれたちのための説明を忘れてるよ。ほらゲームがどうとか支配がどうとかって、あれ、毎度恒例にするべきだよ。よくわかる鬼ヶ島講座初級とかいって。そりゃあさ、あんたらはもう妖怪世界の勝手ってもんがわかってんだろうけど、事情のわからんおれっち、置いてけぼりだよ!」
紅鬼は、ふむ、と言って指を立てた。
「なるほど。社員である以上、君の理解力にも合わせて説明しておく必要がありそうだな。難しいからよく聞くんだぞ。まず、鬼にも赤いのや青いのがいるのはこの間話したな」
「うん」
「実はな、白いのとかもいるのだ」
という紅鬼に、鬼伽姫が忌々しそうに付け加える。
「零鬼って奴がそいつで、アタシの婿になるつもりでいやがる。いつか殺す」
「へえ。なるほど、よくわかったー」
などと三人の不毛な話が中断した直後、紅鬼は思い出し、うなった。
「し、しまったぁ、ワシとしたことが! 隣のベッドにシャバの人間がいるのに、よりにもよって、よくわかる鬼ヶ島講座初級まで! ぐうう! 何たることだ!」
と、その脇から、譲が入ってきた。

「あおがひめ、さん……と言うのですね、彼女」
と眼鏡を直し直し、頬を赤らめる。
「アカオニさんの娘さんではあるけれど、今は敵対しているアオオニさんのもとにいる、と。何とも複雑な事情にあるようですね、あの青い肌のビューティは」
と大事なことは聞き漏らさなかった謙は、涼しい声で悠々と情報漏洩を決めながら、それでもなおぼんやり宙を見るような目をして、
「父上殿。お友達からなら、許してもらえないでしょうか」
などとごにょごにょ言いかけたが、すっかり回復した大平に首に腕を回されて遮られた。
「よ! 鬼の父ちゃん。こいつ譲。袋小路譲って言って、めっちゃ頭いいん。生徒会の委員長にして、我が校のホープ。好きなものは、ほら、アレだ。シーフードスパゲッティとボンテージファッションの美女と映画鑑賞だったな」
「ああ、その通りだ。シーフードスパゲッティとボンテージファッションの美女の映画の鑑賞に間違いない」
「おうよ。ハイタッチ〜。最近SMへの興味もめざましい、俺の大親友ってわけ」
という知性のかけらもない紹介を経て、一同はようやくひと心地が着き、悟りきったような目で沈黙した。と、蜘蛛ノ大臣が指をパッチンと鳴らし、ようやく「ああ、我々は何か間近な問題を抱えていたのではないか」ということを思い出した。

「えーと、鬼がいっぱい、家族もいっぱいって話でしたよね」
と言う千児に、
「鬼もピンキリって話だよバーカ」
と鬼伽姫。その瞳には、妹であることをとても認めたくない、自分を攻撃した蒼牙姫への憎しみがぎらついている。紅鬼はもはや何も言えずに苦い顔をした。そんな重い空気の親子をからかうように、隙山大平はかっかと笑い、軽口を叩いた。
「鬼がいっぱいでピンからキリまでか。で、毎度毎度新しいのが出てきたりすんの? ちゃりーん、今週の鬼っ子は、ブルーの『あおがひめ』ちゃんだよー! 炎とかも出しちゃうよー。さあテレビの前の君も、7色の鬼っ子をぜーんぶ集めて、ウルトラレアな『プラチナゴールドがひめ』ちゃんをゲットしよー! みたいな……」

険悪な空気が充満した。蜘蛛ノ大臣は、ふう、とため息をついた。鬼伽姫はギシギシと歯を鳴らすと、そっぽを向いて横になった。その瞬間、みんなバカ死ね、と声にならない声で言ったように千児には思われた。考えてみりゃそうだよな、と彼は思った。負傷した自分を周囲が十分に労ってくれないままのこの騒がしさ。鬼でもそりゃ哀しいかもしれないさ……そんな気まずさに耐えられなくなった千児は、大平の肩を掴んで責めた。
「もう! 先輩ってどうしてこうも空気が読めねえんスか!」
「ち、ちげーよ。なんか暗いなと思ったからこそ、敏感にそれを感じ取ったからこそ、みんなの空気を明るくしようと思って、おれはぁ、おれはねぇ!」
「もうわかったから! いいから!」
と千児が喚く大平の肩をひょいっと離したその時。

「親父、アイスクリーム」
とふて寝しながら姫が言った。沈黙する一同。3秒後、しびれを切らしたように起き上がると、姫は父親を睨みあげ、気まずそうに髪を掻きながら、言った。
「だから、アレだよ。蒼牙姫とのことはアタシは認めらんねー。しかし、いつまでもこうしててもつまらん。仲直り、考えてやっても良いって言ってんだ」
その言葉に、蜘蛛ノ大臣はほっとしたように微かに笑んだ。千児は、こいつの笑顔はじめて見た、と思った。別にきゅんとはしなかった。一方鬼殿は目をきつく閉じて、何かを思案している。その様子を見て、姫はもう睨むのをやめた。口調も穏やかなものとなった。
「なあ親父、特別な日に食おうって言ってたアレ、職員室の冷蔵庫に紛れ込ませてあったろ。たしか限定のやつ。ここでアレ開けちまってさ、とりあえず仲直りの乾杯といこうや」
しかし、思案を終えて瞼を開いた父の返事は意外なものだった。

「すまん。食べてしまった」
校庭に吹く風が木を揺らす音が、さあっと響いた。姫はまだ落ち着いていた。
「バカ言うな、4つもあったろ」
「……」
「親父、4つあったよな。まさか、まさか一人で……」
姫は目を見開いた。大臣は思わず顔を背け、唐傘も回るのをやめた。
「すまん。食べてしまった」
二度目のその言葉が発せられた時、姫は歯がみすると、そのやりきれない思いをぶつけるがごとく、千児と譲の襟首を掴んで後ろに引きずり倒し、喚いた。
「親父のバカヤロー! 親父なんかどっか行け! 蒼鬼退治でもツアーバイキングでも何でも一人で勝手に行って、勝手に満足してくたばればいいんだチキショー!」
そう最後まで言い終わらぬうちに、大臣と唐傘の制止を振り切った姫は、窓から飛び抜け、ベランダのフェンスを踏んで跳躍し、どこへともなく姿をくらました。